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日立国際八木ソリューションズ

今日の情報社会の中で、電気通信分野の果たす役割は非常に大きくなっています。 この電気通信分野の重要性を予見し、その先見性に自信を持って研究と教育の先頭に立ってきた、「八木アンテナ」の発明者、八木秀次博士の足跡をたどってみましょう。

八木式アンテナの発明者 八木秀次小伝

1. 大阪に生まれる>

八木は明治19年1月28日に大阪で生まれました。北野中学時代は文学に魅せられていましたが、第三高等学校では理科を選ぶなど、この頃から科学者として生涯を貫く使命感を持っていました。 しかし終生、読書人としての素養、文筆家としての才能はとどまることをなく、数々の随筆集、例えば「蟻の咳払い」などを残しています。

2. 留学と電気通信の研究

第三高等学校から東京帝国大学工科大学に進んだ八木は、大学卒業と同時に仙台高等工業学校に招かれ、教壇に立ちました。 大正2年2月、文部省から3年間のイギリス、アメリカ、ドイツの海外留学を命ぜられます。 この留学こそ、彼の電気通信研究の契機となったのです。
ドイツのドレスデン工科大学では、電気振動の世界的権威であるG・H・バルクハウゼン教授の研究室で、「連続した電波を空間に放射することが可能かどうか」を研究します。 イギリスのロンドン大学では、フレミングの法則を考案したJ・A・フレミング教授に師事し、アメリカのハーバード大学では、数学者のピアス教授の研究室に移ります。当時アメリカでは真空管式通信の開発研究が注目されていました。
大正5年6月、八木は帰国しますが、助手の宇田新太郎の協力を得て「短波長ビーム」の研究を進めます。 おりしも、大正8年5月22日、仙台高等工業学校は東北帝国大学に昇格し、八木の主張である、「基礎と独創の精神」を基調とする電気工学科をはじめ、化学工学科、機械工学科を設置します。 他の大学の電気工学科では、産業界の要望もあって、強電の研究が主流でしたが、八木は電気通信・真空管など弱電の研究と指導に力を入れます。この八木の主張を応援するかのごとく、大正10年、バルクハウゼン教授が画期的なバルクハウゼン振動を発見し、八木はこれを契機として、将来無線通信は超短波から極超短波へと広がり、社会へ貢献することを予見します。

3. 八木アンテナの発明

八木アンテナの発明

大正12年、八木の研究室では、宇田新太郎の同級生である西村雄二が卒業論文のため超短波を用いた単巻線コイルの、固有波長を測定していたとき、振動体の導波現象を発見します。 八木は半波長より短い空中線が導波現象を呈することを宇田新太郎に話し、その理論的・実験的裏付けの研究を行わせます。 その事情について宇田新太郎は電気通信学会雑誌「アンテナ特集号によせて」(昭和40年4月号)に記しています。『私の組み立てた波長約4mの超短波発信機は共振回路としてプレートグリッドにそれぞれ1本の導線のループがあり、これが互いに接近して取り付けてあった。このループが予想外に強い指向性の電波を射していることに気が付き、かつ驚いた。今なら当たり前のことである。これが私に電波の指向性ということについて興味を覚えさせることになった。』 間もなく反射器・導波器を組み合わすことを思いつき、八木・宇田アンテナが生まれました。 つまり、超短波を空間に放射する放射器の前に、その半波長よりやや短い金属導体を置くと、電波はある方向に集中して出るということを発見し、理論づけたのです。 その後、大正15年、八木は宇田との共著で「新電波投射器と無線燈台」「電波よる電力輸送の可能性について」と題する報告を第3回汎太平洋学術会議で行っています。これらの研究は外国において「超短波論文の古典」として高く評価されました。また、昭和3年のアメリカでの講演は、全米各地にセンセーションを巻き起こしました。

4. 水の都大阪へ

昭和6年末、八木は阪大総長 長岡半太郎に請われて阪大理学部創設委員となりました。八木は、阪大物理学教室に原子核の講座を設け、この講座に京都大学から若手理論家の湯川秀樹を迎えました。これは八木の独創的研究の精神が実を結んだと言えます。 八木の「技術人夜話」の一節に 『そのころ日本の大学ではどこでも原子の問題といえば、原子の外部すなわちスペクトルの研究に限られていたのであるが、阪大のホープと目される湯川助教授の下には坂田昌一氏、武谷三男氏等の多数の精鋭が集まり、今日に見る素粒子研究陣の素地が培われたのである』 と述べられています。 八木の「将来、中性子工学たる新分野が大いに発展して、驚くべき社会変革が始まるだろう」と予見した先見性と独創性は、みごとに開花しました。 やがて起こる日支事変・太平洋戦争は、一面において科学の飛躍的な発展を招来しました。 しかし皮肉なことに、日本では軍事的には非常に有効な電波、特に短波の利用は重要視されませんでした。 それを如実に示すのが、戦場で捕虜にしたレーダー手の所有するノートです。そのノートには「YAGI」という言葉が頻繁に出てきます。「八木の発明した理論」が電波兵器の至る所に応用されていたのです。 これに比べ、わが国に八木式アンテナが定着したのはテレビ放送が開始された昭和28年のことでした。

5. 八木アンテナ株式会社の設立

八木アンテナ株式会社ポスターの画像

昭和15年、八木が電気学会長であった時、日本工業会大会において「電気工学の躍進」というテーマで特別講演をしましたが、ここで二つの予言をしています。
その第1は 『将来、中性子工学なる新分野(現在の原子力工学)が発展して、驚くべき社会的変革が始まるだろう』 と述べ、原子力時代を予言しています。
第2は電子工学(中性子工学)の発展について述べ、 『近年現れる電気の新奇応用は殆どみな電子管の応用に属すると言えよう。無線・電話・ラジオ・写真伝送・テレビジョンをはじめとして、自然科学研 究の諸方面工学と技術の諸部門における応用がそれである。さらに、日常 生活にまで侵入すると予期されるから、電子工学の領域はますます拡大分散する傾向をもっている』 と、結論しています。その具体的なものとして、「テレビジョンと電子顕微鏡」をあげています。 この76年前の予言、その先見性には驚くばかりであります。 八木秀次は、発明以来30年余り、世界的にその優秀さを認められながら、日本ではいまだ日の目をみない八木アンテナの技術をこの時期に製品化し、きたるべきテレビ時代に長年の夢を果たしたいと考えました。こうして、昭和27年1月29日、アンテナの製造および販売を目的とした八木アンテナ株式会社を資本金250万円で設立し、取締役社長に就任しました。67歳でした。
一方、昭和28年、テレビ放送開始にあたって、テレビ事業は多くの政治的・技術的な問題を抱えていました。その技術的問題を打開すべく、標準方式をめぐるチャンネルの問題について、八木は次のように語っています。 『最近、テレビジョンの標準方式というものが定まった。白黒式テレビで波帯幅6メガサイクルを使う。米国では白黒式も天然色も6メガサイクルであるのに、日本の技術者は天然色は7メガサイクルでないと出来ない。だから白黒式にも7メガサイクルを許して貰いたいと言った。 天然色テレビは未だ5,6年先のことである。この間に6メガサイクルで立派に天然色テレビを実現すべく研究しようともせず、アメリカよりも広い波帯幅を許して貰いたいとはあまりにも自信のない話である』 広い波帯性である7メガサイクルを採用することにより、他で利用する波帯が少なくなるとの発言です。ここにも鋭い先見性を窺うことができます。 博士とその協力者の発明したアンテナは、今日、テレビ用として従来の狭帯域性から広帯域に改良されていますが、その本質は変わっていません。そしてさらに地域防災無線・船舶・航空機の安全航行など無線分野の多岐にわたって活用されています。

6. 晩年

八木 文化勲章受賞の画像

その後、昭和30年、請われて武蔵工業大学学長に、また昭和31年11月3日には、八木の長年の功績が認められ文化勲章を受章します。当年71歳でありました。
その他、33年にはデンマーク工学アカデミーからプールゼン金牌が贈られ、 37年、スイスの第2回国際テレビ・シンポジウムにおいて表彰されています。 昭和35年5月、八木アンテナ株式会社の社長を退任し、引退後も日本学士院会員として活躍するかたわら、外国の技術書やIEE誌などを読み続けながらの毎日を送られますが、昭和48年10月病に倒れ、2年3ヵ月にわたる闘病生活を続けましたが、昭和51年1月19日静かな眠りにつきました。89歳でした。